法の支配と法治主義:両者の違いや対義語について

今回のテーマは、法の支配についてです。その概念は、日本の憲法を理解するうえで極めて重要な概念といえます。

ただ、一言で法の支配と言っても、学者・論者ごとに少しずつそのニュアンスが異なるのが現状です。

また、その内容に深入りするにはかなり高度な知見が必要となります。私自身、これらを理解・解説するのは無理です。

資格試験対策などのために憲法を学ばれる方にとっては立ち入ることすら不要でしょう。大まかに理解しておけば足りるものと思われます。

そこで、今回は、「法の支配」の概念につき、議論の深入りは避け、大まかな概念・イメージをもってもらえるよう説明します。

また、法の支配と対置的に説明される法治主義についても、併せて解説します。

法の支配とは

私が学生の頃の憲法の教科書の定番と言えば、「芦部信喜」という教授の書かれた「憲法」(岩波書店)でした。

現在の資格試験対策本などにおいても、同書の考え方を基礎としていることが多いと思われます。

同書は、法の支配の原理につき、「中世の法優位の思想から生まれ、英米法の根幹として発展してきた基本原理である」としたうえで、次のように述べます。

「それは、専断的な国家権力の支配(人の支配)を排斥し、権力を法で拘束することによって、国民の権利・自由を擁護することを目的とする原理である」(第4版13頁以下)。

ここで「権力を法で拘束する」という場合の「法」については、いわゆる法律だけではなく、憲法を含みます。

法律で行政権をコントロールしようとするに留まらず、行政権・立法権ともに憲法を含めた法規範で拘束し、国民の権利・利益を擁護しようというのです。

現在の法の支配において重要な4つの要素

また、同書は、さらに、法の支配の内容として現在重要なものとして、次の4つをあげます。

①憲法の最高法規性の観念
②権力によって侵されない個人の人権
③法の内容・手続の公正を要求する適正手続
④権力の恣意的行使をコントロールする裁判所の役割に対する尊重

ここで着目されるのは、①憲法の最高法規性の観念と④裁判所の役割に対する尊重です。

法の支配の下では、ある権力行為が最高法規たる憲法に適合するか否かは、民主主義のプロセスから離れた裁判所によって審査の対象となる。

つまり、憲法判断を担う司法に個人の自由・人権を擁護する砦としての役割が期待されているわけです。

また、法の支配の下では、②個人の人権の尊重や③法内容・法手続の公正さが要求されます。

「法」であればどんなものでもいいか、というとそうではなく、②個人の人権の尊重の要請や③法内容・法手続の公正さといった実質的な要件を満たす必要があるわけです。

立憲主義との関係

現在における法の支配の内容は立憲主義とほとんど同一の内容を有すると理解されています。

近代における立憲主義というのは、権力者の権力行使を最高規範たる憲法で制限して、国民の権利や自由を擁護しようとする考え方を指します。

国民の権利・自由の擁護を目的とする点、権力を最高規範たる憲法で拘束しようとする点で両者は共通します。

法の支配と近代における立憲主義につき、ほぼ同一のものと理解されていると指摘する教科書もあるぐらいです(憲法学読本(株式会社有斐閣)参照。)。

関連記事:立憲主義とは
近代的意義における立憲主義について説明した記事です。立憲主義は、日本の憲法の基礎となる考え方の一つですので、立憲主義ってなんだっけ?という方は、ぜひ一度ご参照ください。

対義語となる「人の支配」との違い

「法の支配」を理解するには、まず、これと反対に対置しうる「人の支配」との差を考えるのがいいかもしれません。

「人の支配」というのは、大雑把に言えば、権力者の判断が法規範に優先する体制のことを指し、法の支配と対義されます。たとえば、「王様の言うことは絶対!」という社会(専制君主制)がそれですね。

権力者は法律に反してでも権力行使をすることができるわけですから、人の支配の政治体制の下では、人権侵害が生じやすく、また、裁判所による救済も期待できません。

これに対して、法の支配の下では、王様でも、個人の人権の尊重などを内容とする法(憲法を含む)に反することはできません(権力が拘束される)。

王様などの専断的な国家権力の支配が排斥されるわけです(そして、王様の行動が法に適合しているか否かの判断をするのが司法(裁判所)ということになります)。

法治主義(法治国家)とは

さらに、教科書などでは、法の支配は法治主義(法治国家)としばしば対比されます。

法の支配と対置される法治主義というのは、国家権力は、「法」という「形式」に従って行使されることが要求される、という考え方で、大陸法(主としてドイツ)にルーツがあります。

一見、法の支配に似ていますが、ここでいう法治主義における「法」は、その内容は問われません。

法の支配が、国民の権利・自由を擁護することを目的とするものであるのに対し、法治主義においては、法の内容が国民の権利・自由を擁護することを目的とするか否かは問われないのです。

法治国家の代表ともいうべき国はドイツですが、第二次世界大戦前、法治主義を採用していたことが、ナチスによる支配を許した一因ではないか、と言われることもあります。

法の支配と法治主義との違い

たとえば、「国民の体内に装置を入れて、いつ何処にいるのか、何を話したのか国が管理してもよい」という法律ができたとしましょう。

法の支配と法治主義の帰結の違いを考えてみてください。

まず、法の支配の原理の下で、この法律は人権を侵害する法律そのものであり、行政によるその執行は当然憲法違反だと判断されます。

これに対して、法の内容が問われない場合(法という形式さえあればいい)、行政によるその執行が許容される、という帰結になり得ます。

言うまでもなくその差は歴然ですね。

形式にすぎない

上記芦部信喜教授の憲法(岩波書店)では、『「法治国家」に言う「法」は、内容とは関係のない(その中に何でも入れることができる容器のような)形式的な法律にすぎなかった』と表現されています。

同教授が言うように、法治主義における「法」の内容が何でもよいというものであれば、法治国家においては、法律により定めさえすれば人権侵害も容易に可能になるという点で、法の支配の概念とは大きく異なることになります。

法の支配の概念は、人権・自由の擁護を目的とするのに対し、法治主義は、人権・自由の擁護につき、中立的な原理(いずれにも転びうる原理)にすぎないと考えられるからです。

<補足>
上記のような法治主義を形式的法治主義といいます。

これに対して、法の内容が人権を侵害する内容をもたないものでなければならない、という考え方を取り入れた法治主義を実質的法治主義といいます。

現在のドイツは実質的法治主義を採用しているとされています。