立憲主義とは

今回のテーマは立憲主義についてです。

このテーマを深く解説するためには、中世・近現代の憲法史を学ぶ必要がありますが、私自身、腰を据えて学んだことがないので、正直、あまり得意なテーマではありません。

ただ、憲法を学ぶ上で、必須のテーマの一つだと思いますので、一通りのことは押さえておきましょう。以下、近代的な立憲主義について、説明していきます。

立憲主義とは

立憲主義とは、憲法により、国家権力を制限して国民の権利・自由を守ることを目的とする考え方をいいます。

権力者の権力行使を、最高規範たる憲法で制限して、国民の権利や自由を擁護しようとする考え方です(近代的な立憲主義)。

立憲主義という用語自体、多義的ですが、現代・近代において「立憲主義を守れ」などという場合における立憲主義は、「国民の権利・利益を擁護する憲法に立脚して政治をしろ」という意味合いを有することになります。

憲法によって国家権力を制限する

憲法によって国家権力を制限するという点が、立憲主義の根底にあります。一番上に立つものすら、法規範による制約を受ける。

たとえば、ある国に王様がいたとしましょう。その国で、王様は、国一番の権力者です。

しかし、立憲主義の下では、その王様の権限も無制限ではありません。立憲主義の下では、王様といえども憲法に拘束されます

王様も、憲法に立脚した統治行為・政治を行わなければならないわけです。

そして、日本国憲法においても、統治者・権力者が憲法に立脚した政治・統治を行わなければなりません。

同第99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と定めています。

内閣総理大臣をはじめ、国家機関は、憲法を尊重し、憲法に反することなく政治・統治行為を行う必要があるのです。

立憲主義の目的

立憲主義は、上記のように、憲法によって国家権力を制限するものです。では、なぜ、国家権力を制限しなければならないのでしょうか。

それは、権力の行使によって、国民の権利・利益が不当に害されないようにするためです。

歴史的に見て、国家権力の横暴で、国民の権利や利益が害されてきたケースなんて数え切れません。

たとえば、国家権力が不当に行使されるケースの一つとして、国家権力による不当な人身拘束があります。

権力者側に都合の悪い意見や見解を述べる人を逮捕して拘束しちゃう。時代を問わず、かねてから行われてきた不当な権力行使の典型例です。

でも、これでは、国民の権利・利益が擁護されているとはいえませんよね。

そこで、立憲主義は、憲法によって国家権力を制限することで、国民の権利・利益を擁護しようとします。

近代的な立憲主義は、国家権力の行使からの国民の権利・利益を擁護することこそを、その目的としているのです。

補足 <学校に置き換えてみましょう。>
学校に置き換えてみましょう。学校には、一番偉い先生として、校長先生がいます。この人が、組織を取り仕切る権限を持っている。

でも、たとえ校長先生といえども、自分勝手にやっていい、ってことにはならない。それを許したら、生徒が困ってしまう。

そこには、校長先生を含めて学校の先生も守らなければならないルールがあるんですね。

立憲主義もこれと同じ。国民の権利や利益を守るため、偉い権力者たちにも、守らなければならないルールを課している。

立憲主義における憲法の内容

近代的な立憲主義は、憲法の内容は、国民の権利・利益を擁護することを目的としますので、その内容も、その目的に即したものでなければなりません。

ここ、大事ですよ。

近代の立憲主義の下では、単に、権力者が憲法を守っていればいい、というだけにとどまらず、守るべき憲法の内容自体も、国民の権利・利益の擁護するに足るものでなければならないのです。

憲法の内容が実をもったものである必要があります。

憲法という規範があっても、それが国民の権利・利益の擁護に向けられていなければ、内実を伴った近代的な立憲主義とはいえないのです。

補足 外形的立憲主義
近代立憲主義のような外観を有するも、その内実が、国民の権利・利益を擁護するものではなく、統治機構側・体制側の維持を主たる目的とするものを外形的立憲主義ということがあります。

この点、戦前に日本にて制定されていた大日本帝国憲法も、国民の権利・利益の擁護が十分ではなく、外形的立憲主義による憲法にすぎない、などと批判的な評価を受けることもあります。

人権の尊重と三権分立

立憲主義の下において憲法に定めるべき第一は、人権の保障です。また、権力の集中による権力乱用を防止する仕組みも必要となります。

この点に関し、たとえば、立憲主義的思想を背景にしたいわゆるフランス人権宣言は、その第16条で、次のように述べています。

「権利の保障が確保されず,権力の分立が定められていない社会は,憲法を有しない」

ここでは、憲法が、人の権利を保障するものであるとともに、国家権力を三権に分立するものでなければならないことが求められているのです。

立憲主義的憲法とされる日本国の憲法も、その第三章において基本的人権を保障するとともに、第4章から第6章にかけて、国家権力を3つに分立しています。

民主主義と結びつく

また、近代的意味における立憲主義は、民主主義と密接に結びつきます。

立憲主義には民主主義が必要

国民の権利・利益を擁護するという立憲主義の目的を達成していくためには、憲法がどうあるべきか、ひいては政治がどうあるべきかを国民自らが決めることを必要とします。

権力者が、憲法あるいは政治を自由に独裁的に決められる、という制度の下で、国民の権利や自由を守ることができないからです。

王様のいうことは絶対!という仕組みの下では、国民は安全・安心に暮らせませんよね。

国民の権利・自由の確保は、国民みずからが政治へ自由に参加できることが必要となるのです。

この意味において近代的な立憲主義の維持・発展には、民主主義が維持・確保されていることを要します。

民主主義には立憲主義が必要

他方、国民自身が政治へ自由に参加するためには、当然ですが、国民自身の権利・自由が確保されていなければなりません。

自由な発言・自由な選挙権の行使が認められていなければ、健全な民主主義を維持・確保することはできないからです。

この意味において、民主主義の維持・確保には立憲主義が機能していることが必要となります。

権力者が行おうとする統治行為に対し、自由に意見ができない社会では、民主主義もまた維持できません。

民主主義の健全な発達には、逆説的ですが、立憲主義が維持されていることが必要となるのです。

現代の立憲主義(福祉国家・社会国家的な発想を取り込む)

最後に、現代における立憲主義の概念について。

現代においては、立憲主義は、国家権力を制限するという考え方に加え、福祉主義的な発想・社会国家的な発想が取り込まれ、または取り込まれつつあります。

国家権力を制限する、国民の権利・利益を不当に侵害する行為を制限する、というにとどまらず、福祉的な観点・社会国家的な観点から国家が、市民生活の領域に積極的に介入して、社会的・経済的な困窮者・弱者を救済・保護することが国の責務であるという思想が取り込まれているのです。

日本国憲法においては、第25条が定める生存権の規定などにその思想をみることができます。

立憲主義と福祉国家的発想は矛盾するか

ここで、福祉的な観点からの積極介入は、国家権力の行使は消極的であるべき、制限されるべきとする近代的な立憲主義の発想と相いれないのではないかと疑問をもつ方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、福祉主義・社会国家的な介入が、現実の生活における国民の自由・利益の実現に資するのであれば、それは立憲主義の本来の目的たる国民の権利・利益の擁護に沿うものともいえます。

近代的な立憲主義の下で、いくら自由を保障する、と憲法が述べたところで、明日食べるものが何もなく、飢えているという場合、その人にとって、その憲法における自由・権利は絵にかいた餅になりかねません。

そこで、福祉的・社会国家的観点から、その救済をはかり、自由・権利の享受を現実的に可能ならしめようじゃないか、というわけです。

そのため、福祉主義的・社会主義的な発想は、立憲主義と矛盾するものではないと解されます(もちろん、積極介入を認めるとはいえ、行き過ぎた権力行使は許されないのですが・・・)。

最高裁判例(食糧管理法違反被告事件)

上記の点に関しては、昭和23年9月29日最高裁判所大法廷の判示が参考となりますので挙げておきます。

生存権の個々人の権利性については否定的ですが、立憲主義につき、最高裁の理解・考え方が伺える判示です。短い文章ですが、近代立憲主義から現代立憲主義への移り変わりとその限界がよく分かります。

昭和23年9月29日最高裁判所大法廷
そもそも、人類の歴史において、立憲主義の発達当時に行われた政治思想は、できる限り個人の意思を尊重し、国家をして能う限り個人意思の自由に対し余計な干渉を行わしめまいとすることであつた。

すなわち、最も少く政治する政府は、最良の政府であるとする思想である。そこで、諸国で制定された憲法の中には、多かれ少かれ個人の自由権的基本人権の保障が定められた。かくて、国民の経済活動は、放任主義の下に活発に自由競争を盛ならしめ、著しい経済的発展を遂げたのである。

ところが、その結果は貧富の懸隔を甚しくし、少数の富者と多数の貧者を生ぜしめ、現代の社会的不公正を引き起すに至つた。そこで、かかる社会の現状は、国家をして他面において積極的に諸種の政策を実行せしめる必要を痛感せしめ、ここに現代国家は、制度として新な積極的干与を試みざるを得ざることになつた。これがいわゆる社会的施設及び社会的立法である。

※ ただし、最高裁は、ここから、「国家は、国民一般に対して概括的にかかる責務を負担しこれを国政上の任務としたのであるけれども、個々の国民に対して具体的、現実的にかかる義務を有するのではない」と続けています。社会的立法は国の任務だが、国家が個々人に対する義務を負うものではないとしている点には注意してください。